「お得なフリー切符で茨城周遊」
[2014/4/5]
春休みとはいっても金欠学生はバイト一択だが、それだけじゃつまらないので一日だけ鉄旅することにした。
ということで、今日はついつい見過ごしがちな茨城の鉄道を乗り鉄しようと思う。
ときわ路パス
今回使用する切符は「ときわ路パス」。
春季と秋季の土日祝日に利用できるフリー切符で、茨城県内のほぼ全ての鉄道路線が乗り放題となる。
ときわ路パスはフリー区間に行かないと購入できないので、まずは取手に向かう。
取手からは常磐線の中距離電車に乗って北上。勝田でひたちなか海浜鉄道に乗り往復で完乗する。
その後は水戸へ移動。水戸からは鹿島臨海鉄道に乗車し、茨城沿岸を南下していく。
同線を完乗したら鹿島線と成田線を使って帰路へ、というのが今日の主な行程である。
常磐線 [取手~勝田]
取手で一旦改札を出てときわ路パスを買い、再び常磐線に乗って勝田へ向かう。
土浦での乗換えで“歌う電車”E501系に遭遇。高校の頃お世話になった列車だ。
ドレミファインバーターは、残念ながら取り替えられてしまっている。
あの独特の音階をもう一度聴きたい。
今見ごろの桜がささやかな鈍行旅の車窓を盛り上げる。
列車は思った以上に速いスピードで突っ走り、約一時間半で勝田に到着した。
ひたちなか海浜鉄道 [勝田~阿字ヶ浦]
常磐線勝田駅ホームの端に、取って付けたようにあった湊線のホーム。
停まっているのはキハ2004。元は北海道の留萠鉄道で走ってた車両だ。
他ではあまり見かけない国鉄準急色の塗装が施されている。
床は板張りで、内装も昔のまま。冷房も一切ついてない。
昭和41年(1966)製造なので、もう既に50年近く走ってる骨董品だ。
嘘みたいに古ぼけたエンジン音を唸らせ、湊線の単行気動車は定刻通り発車した。
住宅地を抜け長閑な田園の中を走っていく。
飾り気のなさが旅情を誘うが、片道僅か30分の旅である。
車内は割りと混雑しており、地元住民の方々と鉄道ファンが半々という感じだ。
拠点の那珂湊駅の構内には車両基地がある。
国鉄急行色、国鉄標準色と、色とりどりの気動車が立ち並ぶ。
殿山駅には昔ながらの電鈴が残っていた。
阿字ヶ浦駅
やがて列車は、終点の阿字ヶ浦に到着した。
構内脇には蒸気機関車時代の給水塔が残っている。
駅は静かな一角にあり、駅前は広々としていて気持ちよい。
折り返しの列車は20分後だ。
徒歩5分のところに海があるので行ってみることに。
穏やかな太平洋を眺める。海水浴場にしてはとても綺麗な所だ。
夏は海水浴で賑わうらしいが、今は人っ子一人いない。
その後は折り返しの列車に乗り勝田へ戻った。
勝田から常磐線で一駅となりの水戸へ移動。
ここから今度は鹿島臨海鉄道に乗車する。
鹿島臨海鉄道 [水戸~鹿島神宮]
鹿島臨海鉄道の赤い気動車が起点の水戸駅を発車した。
日本で唯一の縦型直噴エンジンを装備した鹿島線の6000形。
ガラガラガラと爆音を唸らせ、尻が痒くなるほどに車体を震わせて走る。
水戸からしばらくは高架の上をひた走っていく。
少し雲が多くなってきた。
観光拠点の大洗を過ぎ、新鉾田で3分間停車。ここから北浦の脇をかすめるように走る。
北浦湖畔からは太平洋に少し近づくが、車窓で海を見ることはできないらしい。
大洗から車内はガラガラだ。
線路は意外と起伏の多いところを突き抜けて行く。
終点少し手前に、「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」という駅があった。
平仮名にすると「ちょうじゃがはましおさいはまなすこうえんまええき」。
読み仮名が22文字もあるこの駅は、日本一長い駅名として知られてるらしい。
鹿島神宮駅
やがて一時間強で、列車はJR鹿島線と接続する鹿島神宮に到着。
高架や切通しが多く車窓の移り変わりは早いが、手堅い鈍行感も味わえるのが面白かった。
JR鹿島線の列車が来るのは約一時間後だ。
せっかくだし、駅から徒歩10分で行ける鹿島神宮を立ち寄ってみようと思う。
関東最古の神社といわれる鹿島神宮。
寛永11年(1634年)に造営された朱色の楼門をくぐる。
参道を歩き、パワースポットとして人気を集めている御手洗池へ。
古くから禊の場とされている場所で、神秘的な雰囲気に圧倒された。
鹿島線 [鹿島神宮~佐原]
日も暮れかけて、駅へ戻ると鹿島線の列車がやってきた。
この列車で茨城を出るので、ここから先は普通運賃を支払って進む。
房総仕様の209系は先頭車にクロスシートが設けられてるのがありがたい。
長い長い北浦橋梁(約1.2km)を渡っていく。
続いて常陸利根川・利根川と渡り茨城を出たところで日が暮れた。
佐原からは成田線を乗り継いで無事帰路へ着く。
鈍行というよりはディーゼル三昧の一日だった。
ときわ路パスは、今年から真岡鉄道や関鉄竜ヶ崎線も利用区間に追加されたらしく、
SL急行券があれば真岡のSLにも乗ることができるようになったという。
ただ、今回自分が計画したのは何の華やかさの欠片もない鈍行の旅であった。