流鉄流山線の旅

「僅か十分強の昭和ローカル旅情に浸る」

[2015/1/18]


何てことない日常を「旅」に変えてしまう希有な路線が、私の自宅近くにあった。
千葉北西を走る唯一のローカル線「流鉄流山線」だ。


流鉄流山線

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流鉄流山線は、常磐線と接続する馬橋から市境(松戸市~流山市)を跨ぎ、終点の流山までを結んでいる。
夕方せっせとチャリを漕ぎ、久しぶりに私は流山線のもとへやってきた。
流山線の車両は昔から一編成ごとに異なる塗色と愛称が与えられる伝統があり、
カラフルな列車がところせましと並んでいた(といっても五編成のみだが)。

上画像だと、左から「なの花」「若葉」「あかぎ」「流星」の愛称が付いている。
昔は銀色の「銀河」や、柿色の「明星」、紺色の「青空」などの列車も存在したらしい。
編成ごとの愛称・塗色付けの伝統が始まったのは、流鉄が西部の車両を譲受するようになってからだ。
79年から導入された1200形に始まり、2000・3000形、現役の5000形へ伝統が受け継がれてきたという。


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「関東の駅百選」にも選ばれた流山駅は、商業地区の喧騒から離れた場所に位置している。
市の中心は流山だが、実際に商店街として栄えてるのは隣駅の平和台付近なのだ。
それにしても殺風景だと思ってたら、何時の間にか駅裏の木々が伐採されたようだ。
駅裏の緑もこの駅の風情に一役買っていただけに残念である。

流鉄流山線は全長5.7kmしかなく、全線単線。駅の数も6駅のみである。
せっかくなので、今日は流山から馬橋まで乗ってみよう。乗車時間は僅か十分強。
旅といっていいのか少々疑問に残るがw、
スケールの小ささなんてどうでもよくなってしまう歴史と伝統が流鉄にはあるのだ。

ということで、流鉄の波乱万丈の歴史を以下で振り返ってみよう。
(どーでもいい方はしばらく飛ばして下さい)


流鉄流山線の歴史

「みりんと町民を運ぶための軽便鉄道」として開業


流山線の歴史は古く、開業は今から約100年前にまで遡る。開業当初の社名は「流山軽便鉄道」
流山は江戸時代から水運の街として栄え、みりんの一大生産地として栄華を誇っていたのだが、
当時開通した国鉄の幹線鉄道(常磐線)の経路から少し外れていた。
そこで、みりんと町民を運ぶために鉄道を敷かないかと地元有力者の間で企画が立った。
これが流山線の全ての始まりだ。

企画が立ったのは1912年。やがて後に線路敷設工事が行われ、1916年に流山軽便鉄道は開業した。
開業時は蒸気機関車2両と客車2両・貨車2両で営業していたが、
当時の流山は農村地帯だったため季節によって乗客数の変動が激しかったという。
しかし年が経つごとに乗客数は増加し安定していった。


旅客輸送の普及~軍用路線としての活躍


1922年、流山軽便鉄道は社名を「流山鉄道」に変更する。
同年には東京博覧会が開催され、また江戸川改修工事の関係者が流山線を利用したこともあり、それまで年間5桁に留まっていた利用者が一気に増大し年間6桁台に膨れ上がった。
続く1924年、流山鉄道は線路軌間を普通鉄道用に改軌し馬橋からの国鉄貨車の直通が開始される。
この頃、沿線に陸軍の食料保管施設が建設され、以後しばらく流山線は軍用路線として機能したという。

太平洋戦争末期、沿線に陸軍施設を有し軍用路線とみなされた流山鉄道は米軍の攻撃目標になった。
1945年7月には流山行きの列車が米軍機の機銃掃射を受け、機関士が重傷を負う事件が起こる。
太平洋戦争後は石炭・油の燃料不足に陥ったため、流山線は電化移行に踏み切った。
1949年に全線電化が完了し、国鉄から電力を買い入れ電車で運行を開始する。


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「1933年から電化まで流山線を走っていたガソリンカー(キハ31形)」

貨物輸送の衰退~西部の譲受車導入


1951年、流山鉄道は社名を「流山電気鉄道」に改名。この頃、乗客数は100万人以上に増加していた。
60年代になると流山は宅地開発が進み、年間乗客数が300万人以上にまで膨れ上がる。
しかし旅客増加とは裏腹に、開業当初の目的だった貨物輸送は減少していった。
流山線の貨物営業は1977年を最後に廃止されている。

1979年、それまで朱色の旧型電車で運行していた総武流山電鉄(←1971年に改名)は新型車両を導入する。
西部鉄道から譲り受けた車両に異なる愛称・塗色を付け、老朽化していた古参車を入れ替えた。
このとき各編成に付けられた名は「なの花」「若葉」「あかぎ」「流星」「銀河」「流馬」があり、「銀河」を除く5つの愛称・塗色は後の新型車両に受け継がれていくことになる。


沿線宅地化に伴う利用者増加~旅客全盛期到来


70年代後、武蔵野線の開業(73年~)に伴い流山線沿線は宅地化が急速に進行していった。
野山と田んぼしかなかった新松戸近辺は、住宅や団地が立ち並ぶベッドタウンとして変貌を遂げる。
この沿線宅地化に乗じて流山線の乗客数は伸び続け、90年代に入ると年間610万人を記録し全盛期を迎えた。

そんな旅客全盛真っ只中に、流山線は一部老朽車を置き換えるため再び新型車両(2000形・3000形)を導入。
94年に「青空」「明星」「流馬(2代目)」「なの花(2代目)」がデビューし、99年には「流星(2代目)」「若葉(2代目)」がそれぞれ加わった。


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「かつての流山線の名物車両2代目なの花(2000形)」

つくばEX開業に伴う利用者移行~ワンマン化事業~現在


21世紀に入っても手堅く運行していた流山線だが、2005年に大きな転機が訪れた。
同線を横切るつくばEXの開業だ。
つくばEXは流山から一本で都内へ行くことができるため、流山線と常磐線を利用して東京入りしていた客の多くがつくばEXへ移行してしまったのである。

この利用者移行に伴い、流山線は2005年末からワンマン化・全2両編成化の事業を進めていった。
2008年に総武流山電鉄は社名を「流鉄」に変更。翌年にはワンマン対応の新型車(5000形)を初めて導入している。

2013年、長らく走っていた最後の古参車「なの花(2代目)」が引退し、流鉄の車両は新型車に統一された。
車両や土地情勢が刻々変われど、往時の愛称を受け継いだ列車が地元客を乗せて走り続けている。
最近ようやくネットに公式HPも開設され、流山線は新境地を迎えている??のかもしれない。



如何だろうか??これできっと流鉄の歴史の深さが何となくお分かり頂けただろうと思う。
Youtube上にある流鉄の投稿映像も貼ってみた。秀逸なので是非見てほしい。
ろくに近代化せずIC対応も行わず、昔ながらの雰囲気を残す地元密着ローカル線。
こんな鉄道が自宅近くにあるんだから、私は物心ついてからすぐ流鉄を好きになった。

歴史と伝統をたっぷり振り返ったところで、これから流山線を往復乗車してみよう。
馬橋まで行ったら一旦常磐線で松戸へ出向き、日暮れ後再び流山線に乗って流山まで戻ってくる予定だ。


流山駅

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ノスタルジックな流山駅へ入ると昔ながらの改札口があった。
21世紀の東京近郊なのに流山線は自動改札を一切導入していない。
乗車時は改札を素通りし、列車を降りたところで改札の駅員さんに切符を回収されるアナクロな仕組みだ。


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切符はよく見かける磁器タイプだが券売機(旧)がこれまたノスタルジックな代物である。
今どきの液晶タッチパネルではなく昔のボタン式のやつだ(他でもまだよく見かけるものだが)。
ちなみに流鉄では、窓口で硬券の乗車券も販売している。観光用ではなくまさかの現役硬券である。

運賃は初乗りで120円と安い。この初乗り運賃は昔からずっと変わっていない。


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券売機の上には、クラシカルな手書き時刻表が掲げられている。
流山線は始発・終電も頑張っており、流山発の始発は4時55分、馬橋発の最終は0時17分。
これは、他の千葉北西の私鉄(新京成・東部野田線etc)と引けをとらない時刻である。


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流山駅のホームは1番線・2番線があるが、常時使われてるのは1番線で2番線は通勤ラッシュ時にのみ使用されている。
流鉄の駅はいかにも「町のための鉄道」という雰囲気がムンムンしていて、時間の流れも緩やかな気がする。

どうやら今日「なの花」はお休みのようだ。ワンマン化されてから、日中の流山線は2編成のみで運行されてるのだ。


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流山駅は流山線の本拠地でもあり、ホーム奥には車両検車区がある。
「あかぎ」と「流星」が暖色同士で並んでいる。「あかぎ」はかつて愛称継承が途切れていた列車だが、新型車両5000形に無事受け継がれた。
初代あかぎは流山線最後の吊り掛け電車だったことでも有名だ。


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色褪せたベンチには「長寿会」と書かれたフカフカの座布団が敷かれている。
恐らく、地元の町会が無料で寄付してくれたものなんだろう。

手づくり感満載の座布団に座り私は馬橋行き列車を待った。


流鉄流山線 [流山~馬橋]

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しばらくすると、接近放送も特になく馬橋行き列車がやってきた。
やってきたのは水色の「流馬」。今日はこれに乗って終点馬橋を目指そう。
まあ目指すといっても十分強で着いてしまうのだが(苦笑)。

「ジリリリリリリリ!」と、懐かしい発車ベル音とともに馬橋行きは流山を出た。



今は閑散時間帯なので車内はガラガラだ。
平和台で乗客が加わり鰭ヶ崎で僅か2人乗り込んできた。
流山からしばらくは住宅街の脇を抜けていくだけで、車窓としての面白みはない。

駅に到着しドアが開くと駅員さんが旗を振って合図を送る。
その合図を確かめた後、運転士がドアを閉め列車は発車していく。
ごくごく当たり前の光景なのだが、流鉄にかかると昭和ノスタルジー映画のワンシーンに見えてくるから不思議だ。

今にも「発車、オーライ!」なんて掛け声が聞こえてきそうである。


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鰭ヶ崎を出て小金城址へ向かうところで、流山線唯一といえる絶景ポイントがある。
かつて「逆川」と呼ばれ、大昔(18世紀~)に洪水を繰り返し暴れ狂った坂川だ。

もはや絶景でも何でもないかもしれないが、流山線で展望が広がるポイントといえばここぐらいなのだ。


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流山線唯一の列車交換駅、小金城址を過ぎると新坂川と並行して進んでいく。
小金城址~幸谷間は、東京近郊では珍しい遮断機のない踏切(第4種踏切)がある。
残念ながら半年ほど前にここで衝突事故が発生してしまったため、列車は警笛を鳴らした後しばらく徐行して進んでいった。

第4種踏切は自発的に危険を察知する必要があるため、今となっては時代錯誤な代物といえる。
鉄の趣味的にはともかく、残しておいてあまり良いものでないことは確かだ。


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徐行区間を過ぎ、JR貨物の線路をくぐり抜けると常磐・武蔵野線と交わる幸谷へ到着。
常磐線と武蔵野線は「新松戸」と名乗っているが、流山線だけ昔の地名「幸谷」を保持している。
流山線がこの駅を開業したのは区画整理が行われる前の1961年。
当時はまだ「新松戸」という地名がなかったのだ。

古くから松戸に住む祖母が言うには、数十年前ここ一帯は田んぼと数件の農家しかなかったという。
今は居酒屋・商店・パチ屋がひしめく繁華街となっており、その脇にひっそりと流鉄の駅はある。
駅がマンションの一階に設けられているのも、他ではなかなか見られない光景だ。


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幸谷を発車すると新松戸駅前の大きな踏切を渡り、新坂川のほとりをひた走っていく。
幸谷~馬橋間は春になると川沿いの桜並木が咲き誇り、車窓には流れ行く桜を見ることができる。

この区間は線路と川の間に遊歩道があるので、流山線を撮影するのにも適した場所といえる。


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左手に常磐線が近づいてくると列車は間もなく終点馬橋に到着となる。
僅か12分の道のりだが、よくよく見返してみれば流山線も結構見所があった!

………すっごい、地味だけどね(苦笑)


馬橋駅

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味わい深い木造屋根が残る馬橋駅は、常磐線と流鉄の二路線が接続している。
列車を降り、改札で待つ駅員さんに切符を回収してもらう。
自動改札に慣れた身としては、その昔ながらのやり取りは逆に特別な感じがする。

松戸へ一旦向かうため、跨線橋を渡って私は常磐線のホームへ向かった。


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快速や中電・特急がバンバン走り抜ける常磐線の脇に、流鉄のホームはこじんまりとある。
馬橋駅の歴史は古く、JR側の開業は何と19世紀末(1898)にまで遡るらしい。

千葉県内で常磐線各駅停車のみが停車する駅では馬橋が一番古いから驚きだ。


流鉄流山線 [馬橋~流山]

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日が暮れた後、松戸から常磐緩行に乗って再び馬橋へ戻ってきた。
ここから復路で流鉄を完乗し終点流山まで向かおう!


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馬橋駅の流鉄の入口はこじんまりとしている。
専用の駅舎はなく、跨線橋の途中に入口が設けられてるのみだ。
入口の時点で木造なところに、流鉄の特異な存在感が現れている気がする。


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木造階段を下りていくと、これまたこじんまりとした改札・窓口の横に券売機が2台置いてある。
全線通しだと運賃は200円。切符を買いベンチに座って列車を待つ。

ホームで待つこと10分後、流山行き列車が到着した。


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緑色の「若葉」がやってきた。若葉号の緑色が個人的には一番好きだ。
古びた木造屋根がいい味出していて、向こう側の常磐線ホームとは別世界である。

発車時間になるとベルが鳴り響く。常磐線からの乗り継ぎ客が一斉に駆け込んできたが、全ての乗客が乗り込むまで駅員さんが確認してから列車は発車する。
「町民鉄道」ともいわれた流鉄を象徴する、温かい光景だ。


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列車は馬橋を発車すると住宅街の隙間をゴトゴト抜けていく。
幸谷で乗客がドッと増えて車内は満席に。
しかし小金城址、鰭ヶ崎と停まるうちすぐに引く。

平和台を過ぎ、ガラガラの状態で列車は終点流山に到着した。


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駅員さんに切符を渡し流山線往復旅は終了。駐輪場に停めていたチャリに乗って帰宅した。

ミニ私鉄だからといって侮れない歴史と伝統に加え、今も昔も変わらない風景が流鉄にはある。
地元密着ローカル線は、苦しい経営状態にありながら初乗り運賃120円を保持して頑張っていた。
僅か十分強の道のりだが、皆さんも流鉄が醸し出す昭和のローカル旅情に浸ってみては如何だろうか。

(完結)

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